何度も何度も草刈りをした暑い夏が過ぎ、畑に子どもたちが戻ってきました。
二学期の始まりです。
どこの学校でもそうかもしれませんが、始まりは、いつでも、“混沌”ですよね?
前の学期である程度築き上げてきた“安定”が崩れ、混乱の中に巻き込まれる。でも、その中には、これまでの惰性を打ち砕き、新しいものを生み出すエネルギーも存在しています。
私たちの学校は、農園の中でのシュタイナー教育という、未来へ向けての新しい試みを行なっています。でも、それを実現していくためには、子どもたちを見守る大人たちのコミュニティーが必要です。そして、当然のことですが、コミュニティーを創ることは、決してたやすいことではありません。
何か新しいことを始めた後、それが次の段階に差しかかる時には、ほぼ必ずそこに何らかの困難さがやってきます。でも、その困難さこそが、正しい道を歩んでいるかどうかに気づかせてくれる“しるし”なのだと、私は思っています。
とはいえ、困難さの中にいるときは、しんどいですよね?
そのしんどさを克服するために、誰かに相談したり、何かの情報を見たり読んだりしますが、今回の私の場合は、それが本屋でたまた手に取った本でした。
高橋巖先生の講演録『人智学的共同体形成論』(春秋社)の中に、「無条件の寛容さ」という言葉が紹介されていて、ハッとしました。
通常の意識でグループを作ろうとすると、そこには自分の意見を聞いてほしいという人ばかりが集まってしまうので、分裂をしてしまう。でも、「分かってもらいたい」ではなく、相手の言葉に耳を澄まし、「分かってあげようとする」側に立てば、日常的な狭い意識を克服して、広い霊的な意識へと自らを広げることができる。そうすることで、相手の内面の中に目覚めることができ、相手のことを自分のことのように感じることができる、というのです。
相手を責めるのではなく、自らの魂を変容させようとすること、それこそが、自分の中にある強力なエゴイズムへの対抗手段であり、人智学的にコミュニティーを形作っていこうとする際の、必要条件である。
今年の三月に他界された巖先生のあの声が、まるで私に語りかけてきてくださっているように感じながら、私はこれらの言葉を受け取りました。
自分だけが正しいと思えば喧嘩になってしまいます。そうなったら、それは果たして教育の場と言えるのでしょうか? そうではなく、もしも共同体に集まってきてくださる大人たちの声に、自分のことにように耳を澄まし、共感することができるのなら、それこそが素晴らしいことではないでしょうか? ここにあるペットボトルがあるおかげで私は今、水を飲むことができる。それと同じように、どんなものも、どんな人も、まるで自分のことのように捉えて耳を澄ますことができれば、子どもたちのためにきっと素晴らしい場所ができるのではないでしょうか? それこそが教育の場に集まる大人たちのなすべきことではないでしょうか……?
京都で、山科で、そして大津で、「秘教講義」の場に集う一人ひとりとの縁をかけがえのないものとして大切になさっていた巖先生が、私に語りかけ、励ましていらっしゃるように感じて、思わず涙が出そうになりました。
何はともあれ自らの魂を変容させようと努力していくこと。
これなしでは、理想の共同体はあり得ません。
秋風の中、このことを考えることができた尊い1週間でした。それによって、新しい道が開けた気がします。
元気に過ごす子どもたちの姿を見ていると、本当に幸せです。
ここからの1ヶ月が、子どもたちにとっても、親御さんたちにとっても、より素晴らしい時間になることを願っています。
2024年9月10日
栄 大和