青い空に真っ白な雲。夏真っ盛りの畑ですが、お隣りの田んぼでは、爽やかな風が青々と育ちゆく稲を揺らしています。しっかりと分けつした稲は、中干しの後で少したくましくなったようで、再び張られた水の中で生き生きと育っています。水の中では、小さなカエルたちが気持ちよさそうに泳いでいます。
日陰に移動して、静かに目を閉じてみると、いろいろな音が農園の環境の中からやってくるのが感じられます。
正面の奥の林で鳴いている蝉の大合唱、右手の田んぼから聞こえてくる虫の声、左から右へ空を横切りながら鳴く鳥の声、左後ろからは別の鳥の声も聞こえてきます。それに加えて、風が畑を渡っていく音、そして、前方から流れてくる水路の水の音。背後の、下の方からも水の流れが聞こえます。水の音は、心に潤いを与えてくれるようです。
三次元空間の中で、立体的に響いているさまざまな音のシンフォニー。時折背後の歌姫街道を通る車の音ですら、自然の一部として優しく聞こえるようにも感じられます。
畑の中には、豊かな感覚体験があります。そして、それをじっくり味わっていると、そこにはいつの間にかゆったりとした時が流れているようです。
畑の学校のカリキュラムを考えているのですが、感覚を育てるという観点から捉え直してみると、すべての教科の内容がぐっと深くなることに改めて気づかされています。
例えば、「にほんご/ことば」の授業であれば、教師が語りかけるたくさんの詩や文章を、耳を澄まして聴くという活動が中心になります。聴覚は、広い意味では触覚を通して耳に届けられると考えることができます。
豊かな意味を持った言葉を毎日繰り返すことで、リズムが生まれ、命が宿り、生命感覚が育まれます。
教師がその言葉の背後に、息の動きを通してイメージや感情などを乗せ、それを子どもたちに届けることができれば、子どもたちはその動きを感じ、模倣して声帯や喉頭や体を動かすことができます。ここでは、自己運動感覚が働きます。
そして、外からやってくる教師の声に合わせながら言葉を唱えるときには、内側から発する自分の声と先生や友達の声との間を行ったり来たりしながら聴くことになります。そこでは、平衡感覚が養われます。
守られた、安心できる空間の中で、身体的な四つの感覚を育ててあげることは、学童期の子どもたちのカリキュラムを考える際の重要なポイントです。
さて、これらの感覚の中で、聴覚を育てることは、学童期の学びの中で特に重要な意味を持ちます。なぜなら、子どもたちは、外からやってくる音を、全存在で受け入れているからです。
聴覚というのはとても不思議な感覚で、誕生前にお母さんのお腹の中にいる時からすでに働き始めていて、死を迎える際にも最後まで働いている感覚です。
ただなんとなく「聞く」のではなく、耳を澄ませて「聴く」とき、私たちは、その音やその声を発する存在の中に入り込み、その背後にあるものをも聴き取っています。そして、そんな聴き方をしているときには、自分の心を鎮めて、世界に対して自分を開く必要があります。そんな聴き方を、小さな子どもたちは実は普段から自然にやっているのです。
それが良い音だろうと、びっくりさせるような音であろうと、子どもたちはそれらを区別することなく、すべてを受け入れています。子どもたちの耳は、そんなふうに、周囲に対してとてもオープンです。それは、全てを受け入れようとする彼らの開かれた魂のあり方を示すものでもあります。
もしもそこに、耳を塞ぎたくなるような騒音や無機質な音、あるいは否定的な言葉がやってきたとしたら、子どもたちの魂はそれを全身全霊で受け止め、傷ついてしまうでしょう。そして、そのような体験が続くなら、彼らは世界に対して耳を、心を閉ざしてしまうようになるでしょう。
それとは反対に、そのものと一体となれるような優しい、美しい響きがやってきたら、子どもたちは世界を良きものとして受け止め、その中で安心して活動するようになるでしょう。
私たちは、カリキュラムを教え込もうとしているのではなく、カリキュラムを通して、子どもたちに大切なものを伝えようとしているのです。それが、「傾聴」する態度、周囲からやってくるものを心を開いて受け止めようとする在り方です。それができたとき、子どもたちは物質的な世界を超え、見えない部分をも感じることができるようになるでしょう。
子どもたちに傾聴する態度を育てようと思うなら、教師は、自らが語る言葉を磨き、それが生き生きとした命を持ったもの、それを受け止めた子どもたちの魂がその背後にあるものと一体となれるような動きを持ったものにしていく必要があります。でも、それは、決して簡単に達成できるものではありません。
一つ一つの音の中にある質や動きを感じ、自分の息を前に動かすことによってその音を響かせようとすること。そして、その言葉を子どもたちの元へ、感情やイメージと共に届けようとすること。
スイスに留学中の友人にお願いして、そのような練習をしているのですが、道のりはとても長く感じられます。でも、練習していくうちに、喉頭が少しずつ自由になり、言葉がより前に響き出すのが感じられます。
いつか生きた言葉を語ることができれば、子どもたちはわたしたちが語る言葉を通して学び、世界に対して開かれた態度を育てていくことができるでしょう。
やることがたくさんある忙しい夏ですが、いつか出会う子どもたちの輝く瞳を思い浮かべながら練習していると、心の中に涼しげな風が渡っていくようです。
2023年8月10日
栄 大和