何気ない瞬間に、ふと子どもの頃の風景が浮かんでくることがあります。
ゴールデンウィーク明けの透き通った爽やかな風に吹かれながら、畝の上に顔を出したキュウリやカボチャやオクラの芽を観察し、野菜たちの素晴らしい生命力に感動しながらふと顔を上げてみると、そこには美しい青空と白い雲がありました。
澄んだ青い空を見ると、小さい頃に育った奄美大島の風景を思い出します。
通学路にある長い坂道を下ったところにある小さなカトリックの教会に、私たちの家族は通っていました。そして、そこには、大きなガジュマルの木が生えていました。
神父さんは、カナダやアメリカから来た人たちで、日曜学校の時にはギターを弾いて歌を歌ってくれたり(弾き語りの「一人の手」は、とても印象的でした)、クリスマスにはみんなで歌を歌いながらプレゼント交換をしたりと、外国の文化の香りがそこには漂っていて、幼い私にはとても新鮮な場所でした。
あるとき、日曜学校で、一人のシスターからこう尋ねられました。「大きくなったら何になりたい?」
私はその時、何も考えずに、こう答えました。「みんなのお父さんになりたい!」
なぜその時そんなことを口に出したか、理由ははっきりとはわかりません。
もしかしたら、洗礼名が「ヨゼフ」(イエスの父)であったことを意識していたのかもしれませんし、単純にシスターを喜ばせようと思って言っただけだったのかもしれません。
でも、もしかしたらそこには、私自身の人生のモチーフにつながるような、大きな何かがあったのかもしれないと、最近は思っています。
「お父さん」のイメージは、時代によって少しずつ変わってきているかもしれません。でも、私の中にあるイメージは、こんな感じです。
何も言わず、黙々とみんなのために場を整えている。
多くを語らず、でもみんなのことをしっかりと見ている、受け入れている。
学び続け、変化し続ける柔軟性を持っている。
どんなことがあっても、真っ直ぐ立ち続けている。
ユーモアがある。
畑を中心にしたコミュニティ、その中にある学校をイメージするときに、心の中に浮かぶのは、そこにやってくるたくさんの個性を持った大人たち、子どもたちの姿です。みんなニコニコ笑顔を浮かべていて、幸せそうで、生き生きしていて、自分らしくそこにいられる場。想像するのは簡単ですが、そのような場を実際に創っていくのは、もちろん簡単ではないでしょう。
異なる個性が集まると、必ずそこには衝突が生じます。思うように進まない時もあるだろうし、時には対立するような場面も出てくるかもしれません。
でも、どんなことがあっても、みんなを優しく、温かく見つめる「お父さん」がいれば、きっとみんなは再び調和を取り戻し、理想的なコミュニティを目指して進んでいけると思います。
書きながら思ったのですが、このような「お父さん」は、誰の心の中にも存在しているのかもしれませんね。誰か一人がお父さんの役割を果たすのではなく、みんなが「お父さん」であるのかもしれません。
同じように、誰もが「子ども」であり、「お母さん」であり、「おじいちゃん」「おばあちゃん」の部分を持っていて、それらの部分を、必要に応じて発揮していける関係性があれば、そこがきっと理想的なコミュニティになるのかもしれません。
さて、ゴールデンウィーク中に、幼稚園の子どもたちのための2回目の集まりがありました。今回は、1年生を含む8人の子どもたちがやってきてくれましたが、皆それぞれの個性に応じて、畑の中で自由に過ごしていました。たっぷり自由に過ごした後、みんなで並んで丸太の上に座ってもらい、お話を語りました。前回と同じ話をしましたが、子どもたちは頭の中で少しずつイメージを形作り、時にはニコニコ笑顔を浮かべたり、期待の表情を見せてくれたりしながら、楽しそうに聴いてくれていました。
輝く子どもたちの瞳を見つめながら、その時私の心の中に浮かんできたのは、「みんなのお父さんになりたい」という、あの時の私の声でした。
そう、今の私の心の中にあるのは、「お母さん」でも「おじいちゃん」でもなく、みんなの「お父さん」になりたい、という思いなのでした。
でも、実際の自分の姿を眺めてみると……、残念ながら、まだまだそこには至っていません。目の前には気の遠くなるような長い道のりが……。それでも、いつか、そこにたどり着けるように、小さな一歩を重ねて進んでいこう、そんなことを思う今日この頃です。
2023年5月10日
栄 大和