どんな学校を創っていこうか、どんなコミュニティが理想的か、それらを実現していくためにはビジョンが必要です。始まったばかりのRespectでの読書会は、その核を形作るために『霊学の観点からの子どもの教育』を読み進めています。
集まったメンバーが、それぞれが持っている希望や夢やアイディアを出し合うことはとても大切なプロセスです。でも、それらがある形になっていくためには、「熱」が必要となります。そして、その熱を生み出すもとになるものが、霊学の観点とリズムです。
改めてこのシュタイナーの論文を読んでみると、そこにはたくさんの宝石のような言葉がちりばめられています。時にはドキッとしたり、時にはうなったり、また時には嬉しくなったりしながら、みんなでそれを読み味わっています。
毎週1回水曜日の午前中に集まるというリズムもとても力になっています。もちろんお子さんのことや仕事の都合等で参加できない場合もあるでしょうが、誰かが必ずそこにやってきて、場を形作るということを、私たちは大事にしています。
『霊学の観点からの子どもの教育』に書かれているのは、主に人間がどんな存在であるかということ、そして、その基本となる四つの構成体がどのような順番に育っていくかということです。
学校も、コミュニティも、一人の人間であるというイメージを持って考えるととてもわかりやすいように思います。その大切な人間をこの地上に誕生させるためには、熱の力が必要です。根気強く、希望を持って、その命が誕生できるように力を送っていくことがとても大切なことだと感じられます。
さて、そんな読書会を続けながら、個人的にはもちろんそれ以外の時間での学びも継続しています。一見バラバラに見える多方面の学びですが、不思議なことに、少しずつそれらが重なっていくように感じています。まるでジグソーパズルのピースが少しずつ合わさっていくように、自分が見ようとしている風景が朧げではありますが、垣間見えるようになってきています。
京都で2ヶ月に1回開催されている「秘教講義」。その中には、たくさんの尊い学びがあります。「汝自身を知れ」という古代から伝えられてきた大切なメッセージを毎回心に思い浮かべながら、私は他の参加者の皆さんと共にシュタイナーの言葉に向き合っています。その中で、「それは私である」という言葉に出会いました。目の前にあるペットボトルも、窓から見える山並みも、周りに座っている参加者も、それらはすべて「私である」というのです。
なかなか理解しにくいイメージですが、繰り返し考えていくことで、少しずつ自分の中にそれが沁み込んでいきます。
例えば、犯罪を犯した誰かのニュースに接した時に、この人はもしかしたら、自分だったのかもしれない、と思う瞬間があります。この人が示してくれた悪は、自分の中にも確かにある。もしかしたらこの人は、それを私に教えてくれるために、その罪を犯したのかもしれない……こんなふうに考えていると、「その人は私である」という考えが、少しだけ身近になってくるように思えます。そして、その人が自分とは全く関係のない人だとは思えなくなってくるのです。
このような考えが日常的に浮かんでくると、世の中にあるすべてのもの、出来事、人々が決して自分と遠く離れたものではなくて、何か大切な関係性を持っているもののように思えてきます。
今の世の中には、困難なことがたくさんあります。私たちが取り組もうとしている教育の分野でもそれは同じです。子どもたちや親御さんや先生たち、そして行政も含めて教育に関わっているたくさんの人たちが、その困難さを共に体験していらっしゃいます。
でも、自分達が良いと思う学校を創ろう、理想的なコミュニティを目指そう、そう考えているうちに、いつの間にか、自分達だけが正しい、自分達だけが良ければいい、そんな考えが知らず知らずのうちに心の中に胡座をかいていることに気づく瞬間があって、ハッとさせられます。「良いことをしようとする自分達」と、「そうでない人たち」を分けて判断しようとする考えは、私自身の心の奥底に強く根付いています。そして、それこそが、まさに現代の諸問題の源である利己主義なのだと思います。いつの間にか利己主義的な考え方に陥り、それに流されてしまう危険性は常に私たちの中に存在しているのだと思います。
自分たちだけが幸せになればそれでいいのでしょうか?
もちろん、そうは思いません。
最近、中学生の頃に読んだ芥川龍之介の『杜子春』のストーリーをよく思い出しています。自分が仙人になるために、そのための修行の道をさらに先に進むために、目の前に現れたロバになって鞭打たれている両親に対して、何も声をかけずに通り過ぎようとするのか、それとも仙人になることを諦めてでも、両親に駆け寄り、抱きしめ、言葉をかけるのか。
難しい選択ではあります。でも、自分だけが先に進めばいいという考えを突き詰めていけば、そこには例の利己主義が現れます。そして、利己主義を持った存在は、霊的な世界では決して進歩を遂げることはできません。結果的に世界のために役立つこともできません。
何のために、私たちは今ここで、学校、コミュニティを創ろうとしているのか。
このことを考えるときに、「利己主義の克服」は大きな課題となってきます。なぜなら、現代に生きる私たちは、神的な世界から切り離されているからこそ、この地上で目覚めた意識を働かせて、独立した自分というものを感じられているからです。つまり、この地上で生きているということそれ自体の中に、利己主義が含まれているからです。
それでも、私たちは、深いところで皆繋がっている、ということも真実なのだと思います。
皆が幸せになるために、この世界がより良いものになるために、どんなビジョンを持って活動していくのか。そのことを考え、実現していくことはもちろん決して簡単なことではありません。でも、とてもやりがいのある、心の底から勇気が湧いてくる使命だと思うのです。
私たちは、まさに今、その道の途上にいます。
もしご興味がおありの方は、どうぞいつでもご遠慮なく、ご連絡ください。
(email: info@nanairo-k.com)
2023年3月10日
栄 大和