2024年
10月
10日
木
田んぼが黄金色に染まる秋が、今年もまたやってきています。
昨年と同じように、田んぼのお隣の竹林を所有していらっしゃるIさんのところの竹を切らせていただきました。メッセージを入れるとすぐに温かい言葉を添えて返してくださるIさんの優しさが心に沁みます。これでハザ掛けの準備はバッチリです。
さて、昨日の朝のこと。私がノコギリガマで竹ドームの前の草を刈っていると、Aくんがやってきて一言、「やっていい?」
「おっ、手伝ってくれるの? もちろんいいよ!」
そうして私は、大人が使うのと同じカマを渡し、Aくんに草刈りをしてもらいました。
危ない使い方をしないように見守ったり、時にはやり方を教えたりしながら、でも基本的には彼がやりたいようにやらせてみました。
その様子を見ながらつくづくこう感じたのです。
本当の学びは実生活の中、生きることの中にある、と。
そして、そのためには、本当に生活のために役立つことを、見える形で行っている大人がいればいいんだなぁ、と。
竹ドームの周りの畑や田んぼは見た目以上に広く、草刈り機で草刈りをすることもよくあります。でも、私が草刈り機を使っている様子を目にしても、子どもたちはそれを真似しようとはしません。でも、シンプルな道具を使って仕事をしていると、それを真似ようとするのです。
今朝も同じようなことがありました。
ハザ掛けのための竿を立てる支柱の部分を立てようと、脚立に乗り、大きな木づちを振り上げながら竹を打ち込んでいました。すると、またまたAくんがやってきて言うのです。
「やってもいい?」
1年生にはまだ早いのでは、という声が自分の内側から聞こえてきます。子どもを脚立の上に上がらせてもいいのだろうか? 木製の木づちは、彼には重すぎて危ないのではないだろうか? ケガをしたらどう責任が取れるのだろうか……etc。
でも同時に、彼の内側から湧き起こるやりたい気持ちを大事にしなくてどうする、というもう一つの声も聞こえてきます。
自分の中にあるすべての枠/“常識”を取り払ってみて、心をまっさらにしてAくんの顔を見たときに、「やらせてあげるしかないでしょう!」と判断したのです。
脚立をしっかり押さえ、必要なところまでゆっくり上がらせて彼の体を支えてあげながら、木づちを、宝物を渡すように手渡しました。
すると彼は、嬉しそうにそれを手に取り、真剣な表情で竹に当たるように振り下ろしながら木づちを打ち込んでいました。
短い時間でしたが、その仕事をやり終えた時の表情は、とても誇らしげでした。
そのうちみんなで稲を刈り取ります。そうして、その後にハザ掛けをするとき、Aくんは自分の行った仕事がみんなのために本当に役立つ仕事であったことが実感できるでしょう。
誰かの役に立つことを自分ができた、それが感じられたという体験は、本当にかけがえのないものだと思います。
一日一日の体験の積み重ねが、子どもたちの心の中に大切な自己肯定感を刻み込んでいってくれるでしょう。そして、それが自分は他の人のために役に立つことをこの手で行えるという自信にもなっていくでしょう。
竹ドームの中での学びももちろん大事です。詩を唱えたり歌を歌ったり、話を聴いて絵を描いたり文字を書いたり……そんな室内での活動と同じくらい、畑の中やその周辺での活動も大切です。
その二つの学びがリンクし合っていくことで、子どもたちは生きるために大切なことを心に刻み込んでいくのだと感じています。
農園ベースのシュタイナー教育、それはより良い未来を創っていくための、私たち大人に課せられた挑戦です。
困難なことは数多くありますが、それでも日々子どもたちは大切なことを学び、受け取り、その魂に刻み込んでいっています。
そんな子どもたちと共に時間を過ごせることを心からありがたく感じる毎日です。
青く澄んだ空、黄金色の田んぼ、カボチャや黒豆が毎日毎日大きくなっていく畑。
子どもたちとのかけがえのない時間を、私たちも魂に刻み込んでいる美しい秋です。
2024年10月10日
栄 大和
2024年
9月
10日
火
何度も何度も草刈りをした暑い夏が過ぎ、畑に子どもたちが戻ってきました。
二学期の始まりです。
どこの学校でもそうかもしれませんが、始まりは、いつでも、“混沌”ですよね?
前の学期である程度築き上げてきた“安定”が崩れ、混乱の中に巻き込まれる。でも、その中には、これまでの惰性を打ち砕き、新しいものを生み出すエネルギーも存在しています。
私たちの学校は、農園の中でのシュタイナー教育という、未来へ向けての新しい試みを行なっています。でも、それを実現していくためには、子どもたちを見守る大人たちのコミュニティーが必要です。そして、当然のことですが、コミュニティーを創ることは、決してたやすいことではありません。
何か新しいことを始めた後、それが次の段階に差しかかる時には、ほぼ必ずそこに何らかの困難さがやってきます。でも、その困難さこそが、正しい道を歩んでいるかどうかに気づかせてくれる“しるし”なのだと、私は思っています。
とはいえ、困難さの中にいるときは、しんどいですよね?
そのしんどさを克服するために、誰かに相談したり、何かの情報を見たり読んだりしますが、今回の私の場合は、それが本屋でたまた手に取った本でした。
高橋巖先生の講演録『人智学的共同体形成論』(春秋社)の中に、「無条件の寛容さ」という言葉が紹介されていて、ハッとしました。
通常の意識でグループを作ろうとすると、そこには自分の意見を聞いてほしいという人ばかりが集まってしまうので、分裂をしてしまう。でも、「分かってもらいたい」ではなく、相手の言葉に耳を澄まし、「分かってあげようとする」側に立てば、日常的な狭い意識を克服して、広い霊的な意識へと自らを広げることができる。そうすることで、相手の内面の中に目覚めることができ、相手のことを自分のことのように感じることができる、というのです。
相手を責めるのではなく、自らの魂を変容させようとすること、それこそが、自分の中にある強力なエゴイズムへの対抗手段であり、人智学的にコミュニティーを形作っていこうとする際の、必要条件である。
今年の三月に他界された巖先生のあの声が、まるで私に語りかけてきてくださっているように感じながら、私はこれらの言葉を受け取りました。
自分だけが正しいと思えば喧嘩になってしまいます。そうなったら、それは果たして教育の場と言えるのでしょうか? そうではなく、もしも共同体に集まってきてくださる大人たちの声に、自分のことにように耳を澄まし、共感することができるのなら、それこそが素晴らしいことではないでしょうか? ここにあるペットボトルがあるおかげで私は今、水を飲むことができる。それと同じように、どんなものも、どんな人も、まるで自分のことのように捉えて耳を澄ますことができれば、子どもたちのためにきっと素晴らしい場所ができるのではないでしょうか? それこそが教育の場に集まる大人たちのなすべきことではないでしょうか……?
京都で、山科で、そして大津で、「秘教講義」の場に集う一人ひとりとの縁をかけがえのないものとして大切になさっていた巖先生が、私に語りかけ、励ましていらっしゃるように感じて、思わず涙が出そうになりました。
何はともあれ自らの魂を変容させようと努力していくこと。
これなしでは、理想の共同体はあり得ません。
秋風の中、このことを考えることができた尊い1週間でした。それによって、新しい道が開けた気がします。
元気に過ごす子どもたちの姿を見ていると、本当に幸せです。
ここからの1ヶ月が、子どもたちにとっても、親御さんたちにとっても、より素晴らしい時間になることを願っています。
2024年9月10日
栄 大和
2024年
7月
10日
水
さっきまで蒸し暑い曇り空が広がっていたのに、いつの間にか爽やかな風が吹き、すっきりとした青空が広がっています。汗をかきかき歩く公園へのいつもの道。今日も、子どもたちと一緒に、しりとりをしたり、追いかけっこをしたりしながらかけがえのない時間を過ごさせてもらいました。
こんな何気ない瞬間に、言葉にはできない幸福感がやってきます。本当にありがたいことです。
4月にスタートした私たちの学校も、今週が終わると夏休み。
この3ヶ月を振り返ると、一言では言い表せないたくさんの想いが、胸の中に浮かんできます。
その中でとても大きなものの一つが、周りの畑や田んぼの方々のさりげない優しさへの感謝の気持ちです。
今朝は、時々車を止めさせていただいているお隣りの田んぼの空き地の周辺の草を、そのまたお隣りの畑の方が刈ってくださっていました。マムシが出たりして子どもたちが危ない目に遭わないように、何も言わずに草刈りをしてくださっていたのでした。
遠くから会釈をすると、その方も少し頷いてあいさつをしてくださいました。
帰りがけには、お隣りの畑のMさんが、「おーい、ジャガイモや空芯菜があるから持ってって!」と声をかけてくださいました。
残念ながら、私達の畑は十分に手がかけられず、まだ野菜を計画的に収穫できるようにはなっていないのですが、Mさんは、いつもこうしてできた野菜を子どもたちに分けてくださるのです。
こんなふうに、周りの方々からのたくさんの優しさに囲まれて、私たちは子どもたちと過ごしてきました。そのおかげで、子どもたちは大きな怪我をすることもなく、事故にも遭うこともなく、夏休みを迎えることができるのです。
毎日元気にやってきてくれた子どもたち、そして、まったく何もないところに子どもたちを通わせるという決断をしてくださった親御さんたちにも、もちろん感謝です。
足りないところや直した方が良いところは、きっとたくさんあるでしょう。
親御さんとのコミュニケーションも、もっともっと必要だったと思います。
でも、未完成だからこそ、発展していけるのだと思います。
夏休み、少しゆっくりとこの一学期を振り返って、この学校が子どもたちにとっても、親御さんたちにとっても、そして周りの方々にとっても、もっともっと良い場所になれるように、アイディアを考え、少しずつ実行していこうと思います。
予想以上に涼しく過ごすことができた竹ドームも、この夏休みの間に完成させようと思っています。
子どもたちがまた9月に元気にやってきてたくさんの学びができるように、その姿を思い浮かべながら、私たちも少しリラックスしようと思います。
支えてくださったたくさんの皆様に感謝、感謝、感謝!
2024年7月10日
栄 大和
2024年
6月
10日
月
このところ良いお天気が続いています。
広い、広い青空を子どもたちと一緒に眺めながら、毎日幸せ感に浸っています。
全国見回してみても、こんなに空が広いところは、ないかもしれません。
奈良、最高です!
さて、子どもたちは、相変わらず元気に遊び、学んでいます。
とはいえ、異なる個性を持つ仲間が集まっていますから、ケンカもたびたび起こります。でも、ぶつかったり、すれ違ったり、嫌な思いを味わったりしながら、私たちは自分を感じ、相手との距離感を学んでいくことができるのです。
ケンカは貴重な学びの場。でも、それを仲介するときの大人の心のあり方が結局問われているんだよなぁと思います。決して子どもと共に感情の波に振り回されるのではなく、温かい愛情あふれる眼差しを持って、目の前の子どもたちの感情にまずは共感する。そして、事実を整理して淡々と伝える。どうしたらいいかを教える。
これを繰り返せば良いのだと思います。もちろんその際にユーモアやイメージといったものは忘れないようにしなければなりませんが。
さて、このところ子どもたちは、チョウチョやトンボを追いかける毎日です。
虫取り網を手にして、あるいはかぶっている帽子を脱いで、モンシロチョウやモンキチョウやキアゲハ、あるいはシオカラトンボを夢中で追いかけています。
時にはギンヤンマやオニヤンマが飛んできますが、高い空をものすごいスピードで飛ぶ彼らを捕まえることは、まだできていません。
チョウチョを捕まえるのは、決して簡単ではありません。
飛んでいるところをすくうのは難しいので花にとまっているところに近寄っていくのですが、音を立てないように、気配を悟られないようにしながらそっと忍び足で行かないと、すぐに逃げられてしまいます。
またうまく網の中にとらえたとしても、それを取り出すときや虫かごに入れるときにも、どこを持つのか、どんなふうにしたら逃げられないのか、工夫が必要です。
虫かごの中に何を入れたら、捕まえたチョウチョやトンボが落ち着いていられるかも、考える必要があります。
そうして、時間が来たら、捕まえたチョウチョやトンボたちを再び外に帰してあげることも必要です。自分が苦労して捕まえた獲物。でも、彼らにとっては何が幸せかを考えて、自分の欲望を抑えなければなりません。
こうして改めて捉え直してみると、チョウチョやトンボを捕まえる活動の中には、たくさんの学びがあることがわかります。
自分の体の動かし方(粗大運動)、目と手を協調させること、手や指の力の入れ方(微細運動)、相手の身になって考えること、意志をコントロールすることなどなど。
ペーターさんは言いました。「畑にあるものがすべて子どもたちの先生になる」と。
チョウチョやトンボは、まさに子どもたちの先生です。
そして何よりも大切なことは、子どもたちは、自らの意志で、心から楽しみながら、その学びを行っているということです。
こんなふうに考えると、子ども時代に、特に低学年の時代に、知的な学びの前にたくさんの遊びを経験しておくことが、その後の学びの大切な土台を築いてくれていることがよくわかります。
確かな基礎の上にしか、堅牢な美しい建物は築くことはできません。
だからこそ、50年後、100年後の未来を考えた教育では、遊びの要素がものすごく大切になってくるのだと思います。
さあ、今日からまた新しい1週間が始まります。
子どもたちがどんなふうに遊ぶのか、とても楽しみです。
2024年6月10日
栄 大和
2024年
5月
10日
金
忙しかったゴールデンウィークが過ぎ、再び畑に戻ってきました。
畑では草や野菜が生き生きと育ち、小鳥たちの美しいさえずりがあちこちから聞こえてきます。さわやかな五月の風が疲れた心を癒してくれます。
さて、4月14日に入学式を行い、私たちのNARA Steiner Schoolが、無事にこの世界に誕生しました。
3名の子どもたちとの毎日は本当に、本当に幸せです。
竹ドームの完成にはまだもう少し時間がかかりそうですが、たとえ雨漏りがしても、たとえ未完成だとしても、3名の子どもたちは自分達の教室である竹ドームのことが大好きで、みんなで毎日楽しく過ごしています。
子どもたちとの毎日は、畑での自由遊びから始まります。
昨日の朝は、こんなことがありました。
私はその時、一人のお父さんと一緒に、種籾を播くための苗床の準備をしていました。その方は畑仕事の経験がそれほどない方ですので、鍬の使い方や溝の掘り方を丁寧に説明してから、二人で苗床周りの溝を掘り始めました。
そこに、子どもたちがやってきたのです。
そうして、なんとこう言うではありませんか!
「手伝っていい?」
驚きました。でも、もちろんこう言いました。
「いいよ。やってみてごらん。」
すると、子どもたちは初めて使う鍬を手にして、私たちの真似をしながら一生懸命溝を掘ってくれたのです。
最初は私が後ろから一緒に手を取って、そこから次第に自分一人の力で、子どもたちは働いてくれました。
もちろん1年生ですから、大人と同じような長い時間働くわけではありません。でも、短い時間の中で、ものすごく集中して手を動かしてくれました。
その時、私の中で、ペーターさんからいただいた言葉がすとんと腑に落ちたのです。それは、次の言葉でした。
「教師は農夫に、農夫は教師になるべきだ。」
私は教師です。ですから、畑仕事は素人です。
当然、自分自身を「農夫」と言えるほどの経験も知識もありません。
でも、畑にいて、さまざまな鳥たちの声を聞きながら土や野菜に向き合っていると、なんとも言えない幸福感を感じます。
日に日に生長していく野菜たちを眺め、声をかけながら、もっともっと彼らのことが知りたい、もっともっと美味しい野菜が作れるようになりたい、そう思っています。
鎌や鍬やシャベルや草刈機を使う時には、無理のない、無駄のない動きができるように、毎回意識しながら働いています。
だから、「農夫を目指す教師」といった方が良いかもしれません。
でも、そうであったとしても、子どもたちは教師である私のことを模倣しようとします。そうして、私がやっているように、鍬を使おうとします。
教師が農夫を目指しながら活動したら、子どもたちは土と親しみ、野菜と仲良くなり、地球を自分の居場所だと感じるようになっていくでしょう。
そして、もしここに共に働く農夫の方がいらっしゃったとしたら、その方が畑のことだけではなく、ここにいる一人ひとりの子どもたちの発達のことを考え、今の時期にふさわしい働きかけの方法を考えてくれるのなら、子どもたちはその人のことを、心から教師だと感じるでしょう。
まだ始まったばかりのNARA Steiner Schoolですから、常時働いているのは、今のところ教師である妻と私の二人だけ。当然、「農夫」の方ははまだいません。でも、いつかきっと、子どもたちに興味を持ち、その健やかな発達を支えようと考えてくれながら、農業に従事しようとしてくださる方が現れてくださると思います。
そしていつか、「教師でありたいと願う農夫」も、「農夫でありたいと願う教師」も、あるいは、「教師や農夫でありたいと願いながら農園の中で自分の個性を活かしながら働く親、大人」もたくさんいる理想のコミュニティーができることでしょう。
そこではみんながそれぞれの個性に合わせて働き、みんなが子どもたちにとっての「教師」であり、「農夫」となるでしょう。
こんなイメージを思い浮かべると、なんかすごくワクワクしますよね?
このイメージをしっかり持ちながら、子どもたちとの一日一日を、大切に過ごしていこうと思います。
それにしても、畑の中での子どもたちは、実に生き生きと過ごしています。そこにいられる私たちは、本当に本当に幸せです。
畑の中のシュタイナー学校、最高です!
2024年5月10日
栄 大和